やっとの思いで飛行機に乗り込んだ私は、ホっと一息ついておりました。とりあえず成田で乗り換えをすればシカゴまではゆっくり出来るからです。シカゴ行きの飛行機に乗り込んだ私は、11時間の飛行時間中、隣の席の女性とも仲良くなりつつ、今迄余り取れなかった睡眠時間を埋めるが如く深い眠りに着くのでした。
シカゴへ着いた私を待っていたのは、空港内大移動でした。私の乗ってきた飛行機は「J」AL乗り換えでピッツバーグへ行くには「U」SAir(現在はUSAirWays)に乗り換えなければなりません。そこで気がついたのがシカゴ・オヘア空港の馬鹿デカさ。しかも、デカいだけではなく、航空会社のターミナルがアルファベット順に並んでるんですね。と言う訳で、「J」から「U」までの長い道程を、延々30分「ほんとに着くんかいな?」と思いつつ歩いたものでした。 ピッツバーグではミードビルの母とその姉が待っていてくれる筈だったのですが、ゲートを出てみても誰もいません。「仕方が無いなぁ」と思いつつBaggage Claimの方へ歩いて行くと、構内放送が聞こえてきます。全く持ってヘンな発音なのですが、どうやって聞いても私の名前を呼び出しているようにしか聞こえません。放送に従って廊下に取付けられている呼び出し用の青い電話を取ると、「お迎えの人は少し遅れますから」だって。人騒がせな。 暫く待つと、やって来ました母S。私より嬉しそうです。しか〜し、ここで再びカルチャーショック!! 会話が出来ない。全く出来ない訳では無いのですが、前回アメリカを去る時よりも、たった8ヶ月の間に着実に低下しているではありませんか。これは私もショックでしたが、母は更にショックだったようです。「この子、喋れなくなってる...」 まぁ、とりあえず気を取り直して学校へ。学校でとりあえず3ヶ月間だけのアパートの手続きをして、何故か学校に届いていた私の荷物を受け取り、アパートへ向かいます。 このアレゲニー・センターと言うアパートはAIPが川を挟んで歩いて通える距離のアパートメント・コンプレックス(団地みたいなもの?アパートビルが立ち並んでいる)のビル1つを契約で全て借り切って生徒を住ませているもので、このビルにはAIPの生徒のみが住み、Studioルームには2人、1ベッドルームには3人の生徒が詰め込まれています。住み心地は大して悪くはないのですが、アート・スクールの生徒が固まって住んでいるので当然ウルサイのと、これだけの人数が詰め込まれている割には家賃が異様に高いのです。私は1学期(3ヶ月)住んだだけで違うアパートへ引っ越しました。 そうそう、アパートに行く前に寄らなければいけない所があったんだわ。そうです、移民局(INS)。何せ、学生なのに観光ビザで入国しちゃいましたからねぇ。 I-20フォームとパスポートを持って、母Sと2人、ダウンタウンの外れにある移民局へ向かうのでした。この移民局と言う場所は、何時まで経っても好きにはなれない場所です。外国人がいつも十何人も待合室で待っていて、それぞれが皆不安そうな顔をしているからです。とりあえず母が私の事情を話し、観光ビザ(B-1)から学生ビザ(F-1)に変更する手続きを取りました。 アパートに着くと誰もいないではありませんか。でも、私の部屋には既に先客が居る模様。しかも部屋の壁にはNirvanaやSound Gardenといったグランジ系(あの頃流行り出したのよねぇ)のポスターが犇いている。ちょっとビビったよマジで。しかし、人は見掛けによらないと言うのはこの事で、後程現れた当人Missyはとっても気の良い女の子でした。 外で食事を済ませてから、M-Town帰らなければいけない母Sを送り出し、ここから私の新しい生活が始まりました。ルームメイトが居るとは言え、基本的には自分の責任で暮して行くと言う生活です。とりあえず自分の荷物を解き、部屋を整理してルームメイトの2人と少し話をしてから、翌日から始まる学校生活に向けて睡眠をとる私でした。 そして翌日、すっかり仲良くなったMissyと連れ立って学校へ行きます。しかし...何なんだ、この学校は?!写真科の階しか見学していなかった私は、ミュージック・ビデオ科がある事をす〜っかり忘れていたんですねぇ。全く、馴れない人が見たら、パンクのコンサート会場の様ですよ。慣れると「だからぁ〜」と言う感じになってしまうんですけどね。 新入生の手続きを何とか済ませた私は初めての授業へと挑むのでした.... |