レトロスペクト・アメリカ


Vol. 09 卒業式」 の巻


『卒業式』...なんて素敵な響きなんでしょう!! M-Townの高校は楽しい学校でした。でも、やっぱり高校卒業と言うのは「親の手から離れる儀式」の様な気がして、卒業式が近づくにつれて、3年生はウキウキし出します。私の高校の卒業式は1991年6月2日でした。

卒業式の準備は大体プロムが終わる頃から始まります。ガウンとキャップ(角帽)のサイズを計ってもらいオーダーします。成績の不安な人は、それまでに先生と相談をして、何とか単位を整え、そうで無い人々は只ひたすらに残りの日々を秒読みするのです。

授業が最後の日、私達3年生は朝からウキウキでした。「これが最後だ」と言う喜びと、「あぁ、この人達にももう会えなくなるなぁ」と言う感慨とが入り交じったウキウキです。しかし、9時間めが終わると、3年生は一斉に叫んだり飛んだり跳ねたり。まるで子供の様ですが、私も大して変わらず、廊下で出会う仲の良い友人と抱き合って飛び跳ねたりと、はしゃぎまくっていました。やぁっぱりウレシイもんね。

卒業式当日。心配していた天気も良くなり、式は学校の隣のフットボール・フィールドで執り行われました。野外の卒業式ですよ。やはり最後までやってくれます、アメリカ!! 初めての交換留学生で、初めての高校卒業式と言う事で、家族全員、なんと祖父母も勢揃いで式場へ駆けつけました。私は朝から髪を整えたり化粧をしてみたりと、バタバタ大忙し。ガウンは暑いし、キャップは頭に落着かないし、と大変でした。

卒業式は、ホームルームは関係なくアルファベット順に座るので、いつもと違うメンバーが私の周りを取り囲んでいますが、そんな事より校長の話の長い事。そろそろ皆が飽きて来たと思われる頃、何と風船やビーチボールが飛び交い出したのです。やってくれるな、悪ガキども!! 壇上の校長とスピーチを任された成績優秀者以外は大喜びです。ビーチボールは卒業生席だけには落ち着かず、何と父兄の座っている客席にまで移動して行ったのでした。更に始まるウェーブ。卒業生席ウェーブに観客席ウェーブと、皆がエスカレートして楽しんでいるので、校長、副校長ともカンカンです。

それから、一人一人の名前が読み上げられ、写真を撮られてから、卒業生は全参列者の前を横切っていきます。その間パフォーマンスをする者なども居て、「お調子者は何処まで行っても変わらんなぁ」と世間に公表しているような物です。私は、アメリカに行って以来、名字をキチンと発音してもらった事が無いのですが、今回も例に漏れず、どう聞いても「ふわわぁ」としか聞きようの無い名前を呼ばれて皆の前を歩き出しました。意外な事に、結構な歓声が上がり、オーケストラの先生や写真の先生と親指を上げ合って笑顔で卒業証書を受け取る事が出来たのでした。

卒業生全員が卒業証書をもらった後、全員の卒業が告示され、私達は「落ちて来たのが当ると危ないから」と訳の分からない理由で禁止されていた角帽を空高く投げ上げ、無事に高校卒業をしたのでした。 ちなみに、私達の学年の卒業式が余りにも校長やスーパーバイザーの御怒りを買ったらしく、次の年からは卒業式はGYMの中で、しかもフザケタ行動を取られないようにビデオカメラと警察の監視付になってしまったのです。困ったもんだ。最後の卒業式くらい羽目を外させてあげても良いと、既に羽目を外してしまった私は考えるのでした。

とにかく無事に高校を卒業した私は、その後1ヶ月と少し、家族と共にフロリダはセント・オーガスチンとディズニー・ワールドなどに連れていって頂き、1年間で溜りに溜まった荷物をまとめて送付し、8月17日、ミードビルを後にし、日本へと帰国したのでした。

しかし、アメリカに対する執着心は燃え上がるばかりです。帰国前に見学した写真の専門学校に進学する事を心に決めていた私は、別れの際も涙は見せず、「すぐ帰ってくるからね」と述べて飛行機に乗り込みました。

=番外編=
成田に到着した私を怪しんだ税関の係員。パンパンに膨れ上がったスーツケースを開けさせ、あげく開けられたスーツケースは父ビルに上に乗ってもらって閉じたものであるが故に私一人の力で閉じる事が出来る訳も無く、その上パスポートも返してもらえないとなれば、私の怒りは想像を絶する物でアッタと言う事が判って頂けるのでは無いでしょうか...と言う訳で、1年ぶりに母と再会した私は超不機嫌なのでした。



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