レトロスペクト・アメリカ


Vol. 02 ド田舎の交換留学生」 の巻


サンディエゴより約1年、父の元に1通の手紙が届きます。高校生を対象とした交換留学生の案内です。色々な知り合いが居るものです。私は父が帰宅する前に、どうやってかバレ無い様に封筒を開け、中身を盗み読みしました。(ナンテ奴だ!!) 父が帰宅し、その手紙を読んだ後、彼は私に「行きたいか?」と質問しました。行きたいなんてもんじゃありません。そりゃぁもう、二つ返事で「行く行くッッ!!」とその話に飛びつきました。父は、アメリカに3週間行って、帰ってきた後も頑張って勉強し出したのは英語のみで、相変わらず理系に弱く、先生や学校体制とも上手く溶け込めない、不器用で自己主張の強い娘をどうにかしたかったのかもしれません。でも私には、只単に「行ってみれば?」という簡単な気持ちで言ったものと思われます。そんな男です、ヤツは(笑)。

かねてよりアメリカの大学留学を企てていた私は、母から「(テストで学年)50番以内になったらアメリカ行かせてあげる」と言われていたのですが、そんな約束は頭から吹っ飛びました。「今すぐ行くっ!」と申込書に記入し、全ての書類を揃え、筆記テスト、面接等をくぐり抜け、実力ではなく迫力で勝ち取ったような交換留学の権利でした。ちなみに、そのY○○という団体から年間アメリカに行くのは500人程です。

留学の為の研修や、高校での年中行事を何とかこなし、高校3年の8月、周りの友達が受験勉強に本格的に突入する頃、私はペンシルベニア州のド田舎M-Townで1年間過ごす為にまたもや飛行機に乗り込んだのでした。

年間500人とは言っても、一度に成田から500人全員が出発する訳ではありません。私が出発した日には約100人程、成田空港に集合しました。成田からまずサンフランシスコへ。そこから半数ほどが別の行き先に飛んで行きました。そして私達残りの半数はシカゴへ。そこで1泊します。そして翌日、私ともう一人の女の子はピッツバーグ行きの飛行機に乗り込みました。彼女はウェストバージニア州に行くと言っていましたが、それからどうなったのかは風の便りにも知りません。

シカゴからピッツバーグ迄は、小型ジェットで約2時間半。当時のピッツバーグ空港はまだ古く、薄暗い通路を言葉もままならず、渡されたチケットを片手に歩いて行く私の不安は相当なものでした。と言うのは、前回でもお判りの通り、当時の私の英語力というのは本当に中学生英語に毛が生えたようなヒドイ代物で、成田からサンフランシスコ、シカゴまではYFUの引率の方が付いて来てくれていたから良かったモノの、シカゴで飛行機に乗った時点で「通じるのは英語のみ」の世界に放り込まれた訳ですから。

ここでは私を更に不安にさせるものが待っていました。ピッツバーグからフランクリンと言う小さな空港へ飛ぶ為の飛行機です。今になった思えば「何であんな距離を飛行機で飛ぶんだろう」と思うようなM-Town〜ピッツバーグ間の車で2時間ですが、当時の私には「これから何処へ行くんだろう」と言う不安のみが取り付いておりました。不安の材料は飛行機でした。それは10人乗りのプロペラ機だったのです。正に「こんなボッコに乗って、落ちたらドウスルんよ!」と言う心境です。

しかし、だからと言って、どう抵抗する事も出来ない私はそのボッコい飛行機に乗り込むのでした。プロペラが回り出すと不安は更に募ります。しかし、そのプロペラ機は離陸して15分後にはフランクリン空港に着陸していました。何なんだ。そこで待っていたの山程の風船と、私がこれから1年間お世話になるホストファミリーの皆さんでした。

ホストファミリーは、父W、母S、父の連れ子のB(10)と母の連れ子のH(10)のFさん4人家族です。M-Townに着いたのはまだ8月の半ばでしたので、それから2週間は学校へ通い出す前の準備期間の様なもので、キャンプなど色々な場所に連れて行ってもらい、ものの判らない小学生のように守られながら楽しんだものです。

M-Townの第1印象はとにかく「イナカ」。日本人は町中で1家族のみで、市バスも路線が3本程あるのみで、後は車、自転車または徒歩での移動です。不安だなぁ。

私は余り判らない英語で辞書を引き引き会話をし、自分に与えられた部屋を好きな色で塗らせてもらうなど、既に日本ではやらせてもらえないような事を経験しながら学校が始まるまでの2週間を過ごしたのでした。




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