レトロスペクト・アメリカ


Vol. 01 日本を飛び出せ」 の巻


私が初めてアメリカに行ったのは、高校1年の夏休み、15歳の時でした。 当時の私は、入りたくも無い高校に入学し、校則や学校の在り方がとにかく気に入らず、登校拒否を繰り返しておりました。 登校拒否と言っても可愛いもんで、別に毎日学校に行かない訳ではなく、両親が共働きだったのを良い事に「行ってきま〜す」と家を出て、両親が仕事に行くまで物陰に潜んで待機しており、それから家に戻って自分で学校に病欠の連絡を入れると言うものでした。

「親の心子知らず」。 そんな私を心配した両親は「ホームステイでもさせてみようか」と考え、当時父の勤めていた仕事関連の3週間サンディエゴ・ホームステイ・プログラムに申し込みました。私はと言えば、「ひゃっほ〜アメリカに行けるヨン!!」位の軽い感覚で、それに挑んだのでした。

とにかく学校が嫌いで勉強が嫌いの私。 高校1年の1学期の成績が10段階で数学α=1、数学β=2、物理=2と言う完全分系頭脳の私。現在翻訳なんかやってるから「さぞかし英語の成績も良かったであろう」と思われる方もおりましょうが、当時の私の英語の成績はヒドイもので、リーダー=3、グラマー=2だったのでした。(10段階と言うのをお忘れにならないように...)

そんな訳で、集合場所に集まった中高生の皆さんと共に飛行機に乗り込んだ私の英会話力はハッキリ言って「限りなくゼロに近い」ものでした。 まず最初に飛んだのは何とハワイはホノルル空港。 「ホームステイの前に英語慣れさせよう」と言うプログラム主催側の優しい心遣いなのでしょうが、中高生にハワイとは、なんとも贅沢な。しかもこの経験が、私を10年間の「ハワイ嫌い」にさせたのでした。「英語慣れ」とは口実ばかり、ワイキキビーチには日本人が溢れ、ABCストアでアメリカ人店員に「ハウ・マッチ?」と聞けば「3ドルです」と日本語で帰ってくるバブリー時代初期の1988年でした。 英語もままならず海外も初めての15歳、「外で食事をしろ」と言われても、英会話する事の恐ろしさに入れる店はファーストフードのみ。なんとも悲しいハワイ初体験じゃぁございませんか。

ホノルルに2泊3日の後、気を取り直して乗り込んだ飛行機は一路サンディエゴ空港へ。ちなみにサンディエゴと言うのは、カリフォルニア州はロスアンジェルスを南下すること車で2時間程の、メキシコとの国境にある街です。その郊外にある、ホストファミリーの皆さんが、手書きのサインや風船、ぬいぐるみなど思い思いの品を手に、とある教会で私達中高生集団を待ち構えておりました。到着した頃には既に夜も更けており、名前を読み上げられてそれぞれのホストファミリーに連れられた私達は、眠いのもそこそこに家に辿り着いて部屋に案内されるなり、スーツケースからいかにも日本らしいお土産を取り出して、新しい家族にプレゼントしたのでした。

それから3週間、週に4日は他の中高生日本人メンバーと共に色々なイベントをこなしつつ、ホストファミリーとの生活をエンジョイです。私は父Henry、母Shirley、Hank(10)、Heidi(8)、Pete(5)で構成されており、Shirleyのお腹にははその時4人めのJennyがおりました。

この初めてのアメリカでのカルチャーショックはまず、会話が出来ない事です。辞書を片時も話さず持っていても、会話には到底ついていけず、子供たちの会話でさえ判らないことのもどかしさ。それでも1週間もすればお互いに「何が言いたいのか」位は判るようになるらしく、判らないなりにお互いに気を遣い合って意志疎通を図ると言う物でした。第2には食べ物。今でこそ何でも来いの私ですが、当時はケーキやクッキー、はたまたサンドイッチまでが甘い(これはピーナツバター&ジェリーでした)のにはビックリするばかり。並んでいる家々がピンクや水色のパステルカラー(今思えば、カリフォルニアの暖かい土地気候ならではですが)にペイントされているのもショック。とにかく、全てが目新しく、素晴らしいものに思えた私は、滞在2週間目にして自分の母親に手紙を書きます。

「ここはとても素晴らしい所です。日本には帰りたくありません。」 いくらホストファミリーの方が私を気に入ってくれたとは言え、元々3週間の予定であり、ビザの事も何も知らない15歳の浅はかな希望でした。

3週間の滞在を終え、涙の別れをして帰国した私の胸には「アメリカの大学に行ってやる!!」と言う野望が渦巻き、本屋で『留学ジャーナル』を読み漁る毎日毎日が始まったのでした。




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