TJ
パパは、見た目が サンタクロースみたいな 人である。 1929年の、世界恐慌の 年に 生まれた人で、2003年 現在、74歳である。 TJ が ワタシよりも 6歳年下で、まだ 20代半ばで ある事を 考えると、かなりの お年だ。 彼は、マンチェスターの 近くにある、オールダム ( Oldham ) と 言う 街の 出身である。 未だに、オールダム・アスレチックス (サッカー) の 大ファンで、試合の 有る日は 欠かさずに ラジオで 聴いている。 そう。 ラジオである。 テレビって 余り 好きじゃないらしい。 昔から ラジオだし、サッカーは ケーブルや サテライトで お金を払った チャンネルじゃないと やってないから、 懲りもせず、素直に ラジオを 聴いているのである。 TJ パパの 父は、保険の セールスマンだったらしい。 「 世界恐慌で、保険屋さん なんて、全然 儲からなかったんじゃ ないの? 」 って 訊いてみたら 「 恐慌で 景気が 悪くなったから、余計 保険の クレームが 増えて 忙しかったんだよ。 」 だって。 なるほど。 TJ パパの 母は、学校で 化学を 教えていたらしい。 この人は、時代的には 珍しく 女性なのに 大学に ( しかも 奨学金を もらって ) 行ったらしい。 更に、毎週 2〜3冊 本を 読むと言う、脅威の 勉強家。 この方の 母 ( TJの 曾祖母 ) の 名字は スチーブンソン と 言って、彼女の イトコだか 何かが、かの有名な、蒸気機関車を 発明した ジョージ・シチーブンソン らしい。 この話。 ワタシは TJ に 長いこと 騙されていた。 彼も、自分の 家族について 余り 良く知らないのだけど、ワタシが TJ パパに 話を 聞くまでは 「 ボクの 曾オジイサンは、ジョージ・スチーブンソン なんだよ。 」 と 言っていた。 「 ちょっと違う 」 ってのは、なんとなく 自分でも 分っていたらしいのだけど(笑)。 うそつきー! TJ パパは、マンチェスター周辺の 出身なのに、その 辺りの 訛 (アクセント) が 全く 無い。 彼の母が 「 標準語を 話しなさい! 」 と 厳しく 躾けた かららしい。 でも 『 標準語 』 ってなんだ? クイーンが お話になる 英語が 『 標準語 』 かしら? でも、その オカゲで、ワタシは 家の中で 会話が 「 意味不明 」 って 事にならずに 済んでいる。 TJ パパの 記憶力は 物凄い。 ワタシは 密かに 『 物知り・パパ 』 と 呼んでいる。 この人、自分が 2〜3歳の 時の 出来事まで 鮮明に 覚えているし、百科事典のように 何でも 知っているので、何か 知らないことが 有ると 「 ねぇねぇ、これって何? 」 と 聞くと、大抵は 正しい 答えが 返ってくる。 教育ママの オカゲなのか、5歳で 既に 読み書きを していたそうだし、現在でも 本当に 沢山の 本を読む。 でも、TJ パパは、12歳までしか 普通の学校に 行っていない。 12歳の時、ロイヤル・ネイビー (英国海軍) に 入隊したからである。 でも、海軍にも 学校は 有るそうで、ダートマスの ネイバル・カレッジ (海軍学校) に 行ったそうだ。 この ダートマスが 曲者である。 「 ダートマスに行った。 」 と言えば 「 ほぉぉ〜。 」 で 済むのだが、これを ダート・モーア と 間違えてしまうと、大変だ。 と言うのも、ダート・モーアには、脅迫犯罪者が 入る 刑務所が 有るからだ。 TJ は 小さい時、自慢げに 「 ボクの パパは、ダート・モーアに 行ったんだ! 」 と 言って、テーブルに シラーッ とした 空気が流れたりしたらしい。 TJパパは、12歳の時から 50代まで ずっと、 海軍で 働いていた。 第2次世界大戦は、さすがに まだ若かったので、戦争には 行ってないけど、 朝鮮戦争には 行ったらしい。 その時、長崎の 佐世保に 寄った事が あるそうだ。 そこで ノリタケの ディナー・セットを 一式、母の為に 買ったのだけど、 大事に し過ぎて 全然使われなかったらしい(笑)。 その ノリタケを、ワタシと TJ は 結婚祝いに 頂いた。 まだ 使ったことは 無いけど、50年以上前の シロモノである。 スゴク繊細な デザインで、ステキな セットだ。 戦争が 終わってからは、TJ パパの 任務は 地図作成であった。 役職名は Surveyor である。 日本語にすると 測量技師だ。 あの、三脚と レンズを 持って、TJ パパは 南極、フィジー、マレーシア (当時は マラヤ) と 世界を 渡り歩いた。 結果は 数々の地図と、ロンドンの 自然史博物館に 有る 数点の 展示物である。 南極 (サウス・ジョージア島周辺)では、今まで 発見されてなかった 巨大な岩を 発見したらしい。 この岩、普段は 海に 沈んでるんだけど、潮の 満ち干で 顔を出す。 そんな訳で、この岩には TJパパの 名字が 命名された。 エベレストに 発見者の名前が 付いたのと、同じ原理である。 地図にも 載ってます! 色んな所に 住んで来た TJ パパは、ワタシが 色んな エスニック料理を 作っても 「 美味しい、オイシイ 」 と 言って 食べてくれる。 そして 「 フィジー語ではね。 『 肉が 食べたい 』 ってのは 『 人間が 食べたい 』 って 意味だったんだよ。 人間以外に 肉は 無かったからね。 他には 魚や 亀しか 食べてなかったから。」 なんて話を 笑顔でしてくれる(笑)。 TJ パパは、TJ ママとは 結婚する 9年も前に 海軍で知り合った。 彼女については 次回 書く 予定だけど、彼女は 海軍の 看護婦として 働いていたのだ。 1970年に 結婚して、ブリストルに 住む事になった 2人。 この時点では、TJ パパは 既に 海軍は 引退して、ブリストル港の ハーバー・マスター (港湾管理者)として 働いていた。 TJ パパの 海軍の ランキングは、少佐である。 今でも、郵便なんかの 宛名は Lt. Comd と書かれて来る。 ハーバー・マスターって、大体 何をする 人なのか、イマイチ 想像しにくいのだけど、要するに 港を 出入りする 船の 行き来を 制御して、事故が 起こったりする事が 無いように する人ですね。 色んな 細かい事に 気を使わなければ イケナイ 仕事らしい。 何でも 記録して、何でも 覚えていて、毎日 日記をつけてる パパには、もってこいの 仕事だ。 結婚 2年目で、TJ 兄が 生まれ、その 5年後に TJ が 生まれた。 TJは、学校の 部活の 試合なんかに 両親が来ると、友人に 「 オジイサン達が 来たよ! 」 と 言われたそうだ。 確かに、オジイサンでも おかしくは無い 年だけど、子供心には ちょっと 傷ついたらしい。 TJ パパには、弟が居る。 彼は 5歳年下で、数学者である。 この人は、ケンブリッジ大学を 出て、オックスフォード大学にも 行ってるらしい。 で、65歳になった 最近まで、ブリストルの パブリック・スクールで 数学の 教師をしていた。 今でも、数学オリンピック と言う、全国規模の イベント (大学 入学前の 若者の 数学力を 競う イベント) の 責任者だそうだ。 最近は、OUPから 数学の本まで 出しちゃったそうだ。 この人は、TJ パパとは 違って、学者肌の 人なので、ちょっとだけ 取っ付きにくい。 だからなのか、タダ単に 学業に 専念していたからなのか、結婚はしていない。 でも、基本的には ものすごーく 良い人である。 TJ パパは、2000年に 前立腺ガンを 患った。 手術と 放射線治療で、ホボ 治り、今は 病院に 年に 数回 通ってはいるけど 今のところは 問題無い。 また、同時期に 糖尿病まで 発覚してしまった。 確かに、彼の 弟も 糖尿病持ちである。 でも、これに 関しては インシュリンに 頼らず、食事に 気を付けて 生活をしている だけである。 そのオカゲで、一緒に 暮らしていても、ワタシが 然程 太らずに 済んでいるのかもしれない(笑)。 しかし、74歳にしては、ものスゴク 元気なのだ、この人。 毎週 2回、欠かさず ジムに 通っているし、運転も バリバリしてるし、ハイキングなんかに 行くと、10キロや 15キロなんて 平気で 歩いちゃうのだ。 いつも 「 ボクは いつ死ぬか 分らないから 」 と 言ってる TJ パパだけど、いつまでも 長生きして 欲しいものである。 2003年 12月 23日 |