出逢い から 結婚まで 

プロフィール でも 書いた通り、ワタシ と TJ は 2000年 9月、カナダ の 登山学校 に 参加中 に 出逢いました。

勿論 2人共、 出会いを 求めて この コース に 参加した 訳では無く、 純粋に 登山 の 技術を 学ぶ為です。 
(この辺の 話は 「お山のお話」 でどうぞ!)

2人はコースが始まって2週間目頃には 正式にお付き合いを始めました。
大体、 カヌーの コースが 終わる頃。



急流で 必死に カヌーを 漕いでると 「ジィィィ〜」 と言う 視線を感じる。
ゴハンを 食べてても 「ジィィィ〜」 と言う 視線を感じる。

過去に 少し痛い目に あった事が 有る ワタシ。 かなり 警戒モード。。。
「ワタシ、素直じゃ 無いし、ちっとも 言う事 聞かないし、ヤサシクも無いよ。 それでも良いんかい?」

どうも、平気だった らしい(笑)。 今頃 後悔してるかも 知れない(爆)。



3ヶ月 の コースの 中盤に 6日間の お休みが 有ったのですが、その お休みには シアトルへ 行く メンバーの トラックに 便乗し、2人で バンクーバーへ行きました。

コースが 終了する12月、2人は決断を迫られます。 「2人の関係をどうするのか?」

TJ は 当初、コース終了後 すぐに 中南米の 旅をする 予定でした。 ワタシ には 何の 予定も 有りませんでしたが 「ビザが 取れるなら、このまま カナダに残って 働こう。」 とも 思っていました。 英語 と 日本語の 両方を キチン と 話す事が 出来れば、カナダの 観光地では ワークビザ が 比較的 簡単に 取ることが 出来たからです。

その時、TJ は 出発予定 の 前日に トテモ 大きな 決心をしてくれました。 中南米行きを 取りやめて、ワタシ と 3ヶ月間 アメリカで 過ごす事にしたのです。

ブリティッシュ・コロンビア 州内に 住んでいる ワタシの 日本人の 友人家族を 一週間程 訪問した後、 2人は グレイハウンド・バス に乗り、4日間 かけて ワタシ の 高校時代の ホスト・ファミリー 宅に 辿り着きました。



クリスマス を ホスト・ファミリーと 共に 過した後、 ピッツバーグ在住の 友人の 計らいで 彼女の お母さんが 所有する アパートを 1ヶ月 借りる事が 出来、2人は ピッツバーグでの 生活を開始。 ここで 21世紀を迎え、ピッツバーグでの 2人だけ の 生活を 満喫しました。

この 2人だけ の 生活 最後の日、TJ は ワタシ に プロポーズ!
出逢ってから 約 5ヶ月の 頃です。

1ヵ月後、借りていた アパートに、正規の 借主が 現れた為、2人は 再び ホスト・ファミリー宅へ。
ここで、再び 2月末迄の 居候生活が 始まりました。

TJ の チケットは、元々は カナダから 中南米へ飛び、その後 2月末に ニューヨーク から イギリス へ帰ると言う モノでした。 2月中頃の時点では、ワタシ は アメリカからの チケットを まだ購入しておらず、そのまま 日本へ帰るか イギリスへ 寄ってから 帰るかの 選択を 迫られました。

プロポーズもされていたし「一度は彼の両親に会わなきゃね」とイギリスへ寄ってから帰る事を決めたワタシ。 早速チケットをTJのアメリカ出発日と同じ日程で購入し、ニューヨークからイギリス経由で日本へ帰る事に。



2月末、2人とも チケットが ニューヨーク発 なので、ペンシルベニアから 再びニューヨークまで グレイハウンド で移動です。 ホスト・ファミリーと 涙のお別れを した翌朝、ニューヨーク に 降り立った 我々。 登山用具が イッパイで、路線バス や 地下鉄での 移動が 不可能と 判断した 我々は、空港直行バス にて JFK空港へ向かい、必要の無い 荷物は 「手荷物預り所」 にて預かってもらう事に。 その後、地下鉄で マンハッタン に戻った 我々は、正味 3日間の ニューヨークを 堪能し、再び JFK へと戻りました。

JFK から ヒースロー までの 飛行機は、2人とも 別の便です。
信じられないかも 知れませんが、この フライトが 2人に とっては 出会った 9月から 半年間で、初めて 数時間以上 離れた時でした。

初めて 乗る ヴァージン・アトランティック航空。 一人 一人に スクリーンが 付いていて、アメニティも豊富。 快適な フライトを 過した ワタシは やっと ヒースローに 到着し、入国審査を 難なく通過。



先に ヒースローに到着していたTJ。 ターミナルの 到着口にて ワタシを 待っていてくれました。 大量の荷物を カートに載せ、2人は ナショナル・エクスプレス乗り場へ。 コーチにて 彼の実家である ブリストルへの移動です。 (ちなみに、 ブリストルの家は もう有りません)

初めてのイギリス。 
ワタシの第一印象は 「ミドリぃ〜っ」 でした。 真っ白なカナダやアメリカから降り立ったのですから、無理も無いかも知れません。

ブリストルの コーチ・ステーションに 降り立った 2人を 迎えてくれたのは TJママでした。 イキナリ 駆け寄ってきて ハグをされて、ちょっとビックリ(笑)。

それから 2週間、ワタシは ブリストルと ラドローの TJ宅にて過ごし、3月中頃 お別れの時が やって来ました。
TJ の 両親とは ブリストルで お別れし、ヒースロー まで 車で送ってくれた TJ。 涙が ポロポロ 出て来る ワタシ を見て もらい泣き をしてしまった TJ。



イギリスに 居る間、2人は 沢山 話し合いをしました。
結果、TJ が 9月に 日本に やって来て 結婚する事に。

少しの間、お別れだね。。。 
寂しいけど、2人とも 貯金も スッカリ 使い果たしちゃったし、半年間、頑張って働いて結婚資金を貯めよう!


実家の母には、彼が居る事もプロポーズされた事も、何一つ伝えていなかった親不幸娘なワタシ。
帰国したその日に「結婚するから!」と、またまた勝手に宣言。

ウチには 「親からの反対」 と 言う モノは 存在しませんでした。
。。。というか、母は 「もう、何を 言っても 聞きゃぁしない」 と 諦めが 入っていたのだと 思う。

スマヌ、母よ。



遠距離恋愛になってしまった2人は、毎週1・2回 国際電話とメールにて連絡を取り合うことに。

そんなある日、私がふと 「七夕」 について TJ に語りました。
それを聞いた TJ は 「ボクも 9月まで待つの やめて、7月 に 日本に行くよ!」 と 大ハリキリ。。。

ガーン(汗)
確かに、早く会えるのはウレシイけど、お金はどうするのよー?
アパートはどうするのよー?

仕方が無いので、ワタシ は 急いで アパートを探し、親戚の 叔母さんに 頼み込んで アパートの 敷金・礼金 を借り、TJ が 来日する 一週間前に やっと 新居を 確保。 「婚約者が外国人」って理由だけで、一体 何件 断られた事か。。。 閉鎖的ニッポン。

そんなこんなで、TJ は 2001年 7月 7日、晴れて名古屋空港へと降り立ったのでした。



入籍やビザのお話は、次の 「日本での婚姻手続き 及び 在留資格認定証明書 の 申請と取得」 で書きたいと思います。

今の2人はこんな感じ。。。    断然 ワタシが 甘えてるかな。



2003年 7月 19日、 2年間 延期していた 結婚式を やっと 挙げる事が 出来ました。
興味の 有る方は コチラ からどうぞ!


国際結婚 TOP国際結婚 TOP日本での手続き